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木彫り熊資料館展示案内

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2019年2月1日更新

展示内容について簡単にご紹介します。

展示

木彫り熊展示室は、大きく4つのテーマに分かれています。

尾張徳川家と八雲の開拓

八雲町の八雲地域(噴火湾側)は、明治期の尾張徳川家主導による旧家臣の集団移住開始とともに開拓が進められてきました。そのため遊楽部川下流域には尾張徳川家当主が農場主を務める徳川農場が存在し、八雲地域の発展の中心的役割を果たしてきました。その歴史を、初期に移住した旧家臣が持ち込んだ品とともに紹介します。

八雲の木彫り熊の歴史~誕生から農民美術研究会解散まで~

尾張徳川家19代当主・義親公が、1921~1922(大正10~11)年にヨーロッパ旅行に出かけた際、木彫り熊を含んだペザントアート(土産品)をスイスで見かけます。このペザントアートを八雲でも冬期間(農閑期)に作って売れば副収入となり、世界的な経済的混乱を受けて荒廃していた農村の復興につながると考えて、見本としていくつか買って帰国します。1924(大正13)年には、義親公が持ち帰ったスイスの木彫り熊を参考として、酪農家の伊藤政雄氏が制作した北海道第1号の木彫り熊が品評会に出品されます。
その後、各地で好評を得た木彫り熊の制作技術の向上と、販売ルート確保などのために八雲農民美術研究会が徳川農場を事務局として結成され、道内だけでなく東京や長野などでも販売されます。しかし第二次世界大戦がはじまると木彫り熊は売れなくなるとともに会員が減少し、1943(昭和18)年には研究会は自然消滅してしまいます。
ここでは北海道土産として有名な木彫り熊の誕生から、「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫熊」と雑誌に書かれるほど有名になったのち、戦争とともに下火となっていった歴史を紹介します。また、八雲の木彫り熊の特徴3態「毛彫り」「面彫り」「擬人化」を解説します。

八雲の木彫り熊の歴史~戦後から現在まで~

戦争によってほとんど作られなくなった八雲の木彫り熊ですが、実は戦争中も彫り続けた人がいました。昭和天皇に木彫り熊を献上するほどの腕前だった茂木多喜治氏です。後に八雲町公民館にて木彫熊講座が開講した時には初代講師を務めます。もう一人、手斧やノミを使って打ち割っただけのような木彫り熊を制作していたのが柴崎重行氏で、その芸術性が高く評価されています。その次の世代が、加藤貞夫氏、引間二郎氏、上村信光氏で、それぞれ個性ある作品を制作しました。また木彫熊講座は1971(昭和46)年から2002(平成14)年まで行われていったん休止したのち、2013(平成25)年から再開し、現在にいたっています。八雲町には、木彫り熊講座を受講した人たちだけでなく、鈴木吉次氏のように独学で制作をしていた人たちもおり、木彫り熊はとても身近な存在になっています。

北海道内の木彫り熊について

八雲で発祥した土産品としての木彫り熊は、道内各地でも制作されるようになっていきます。
旭川の松井梅太郎氏や平塚賢智氏、札幌の堀井清司氏・清美氏、阿寒湖の藤戸竹喜氏といった方々の作品を展示しております。