木彫り熊いっぱいな八雲学

やふー!しげちゃんです。
明日は八雲学!ってことで、前回の八雲学の講義内容をチラッとご紹介。
興味が湧いた方は、明日からでも八雲学は参加できるとのことなので、公民館までお問い合わせをば。
※八雲学は公民館講座の一つで、全8回を予定してます。明日が第3回で、元酪農家の加藤孝光氏による「酪農国八雲の過去と現在と未来」というお話になります。八雲が北海道の酪農をリードしまくってた全盛期に、その中心的な人物だった加藤氏からお話を伺えるとても良い機会ですよ。

 では前回の三浦孝一氏による「『北海道といえば木彫り熊』を定着させたのは八雲?」の講義をサラッとご紹介…できるわけなく、かなーり堅いそして長い文章になりそうな予感が…

 まず、八雲の木彫りの発祥は、徳川義親公がスイスのベルンにて木彫りの民芸品を購入し、それ制作することを、農業ができない冬の間の副業として農民に広めたことに始まります。
 作品制作を奨励するために、スイスの民芸品を八雲に送ったのが1923(大正12)年、その翌年3月に、「農村美術品評会」を開催します。
この農村美術品評会は、家庭で作ったものを品評し、その場で売るという、即売会的な面も持っていました。
 この農村美術品評会は新聞でもてはやされ、遠くは愛知県から切り干し大根を送ってくるような状況でした。…食品が出品されていることからも推測できるように、当時、「農村美術」というものの実態はよく知られていなかったことと、どんな品物を品評するのか定めていなかったこともあって、「おらが村の特産品」的な勢いで多数の参加があり、その数1098点にのぼりました。
 台帳によれば、そのなかに、スイスの「木彫りの這い熊」をモデルとした、伊藤政雄氏が作った「木彫りの這い熊」が2点出品されていました。現在残っているものは1点のみですが、当時は2点あったようです。ともかく、これが北海道初の木彫り熊となります。その他に、木彫り作品では「スキー板」が多かったようです。
 その後、八雲独自の作品を義親公は模索していきます。
義親公自身は、木彫り熊をはじめとしたスイスの民芸品は、あくまで参考品であって、これらをヒントに八雲らしい民芸品を作ってほしかったようです。
 1926年3月に第3回農村美術品陳列会を東京での展覧会出品の予選とすることが話し合われたが、販売に適する作品がないとのことで、東京の展覧会は中止に。
 同年5月に、義親公が徳川農場の職員等に指示して、民芸品の参考とするため、世界各国・日本全国の土産品を集めて八雲に送ります。また、八雲では熊狩りに出かけた義親公が子熊を2頭捕まえてきて農場で飼育し始めます。のちに「雲八」「磯子」と名付けられ、木彫り熊の参考のために檻の中で飼われます。…その後も、捕獲された熊が追加されたり、小熊が生まれたりして数が増え、東京や名古屋の動物園に寄付してました。ついでに、檻の中で食っちゃ寝してるもんだから太っていって、それを参考にしている木彫り熊もふとましくなっていったというオチがあります。

 それはさておき、同年12月10日に、千葉県農会技師より木彫り熊購入の依頼が入ります。
 翌年の1927年、東京で開催された全国副業博覧会において伊藤政雄氏の木彫り熊が2等に入賞し、同年、北海道奥羽六県連合副業共進会にて1等賞を獲得します。
 義親公は木彫り熊を強烈に「推し」ていたわけではなかったようだが、社会としては、木彫り熊を求め、木彫り熊が八雲の独創的農民美術として評価されるに至りました。木彫りの中でも熊が推しメンじゃなかったんですね

講座風景
講座は木彫り熊展示室にて開催されました

 それまで優秀な人を集めて木彫りの講習会を行っていましたが、1928年には農民美術講習会を、講師は伊藤氏と日本画家の十倉氏で、材料は用意するし授業料は無料だけども昼飯は持参という条件で1週間行いました。
 そして、農民美術研究会を、会員による組合組織として独立させます。
これは、制作は会員が行い、材料の調達と販売を徳川農場が担当し、研究会は毎月の例会と隔月の共同制作を行うというシステムで、売れた作品は販売価格の7割が会員に、3割が徳川農場にはいるというシステムでした。
 また、農民美術研究会は木彫り熊部門と木彫工芸・織物などの部門に分かれていて、木彫り熊以外の作品も作っていました。しかし木彫工芸・織物部門については資料が残っておらず、よくわかっていません。ホームスパンを使っていたのは、ホームスパンが残っているのでわかるのですが…
 それはともかく、研究会で作った木彫り熊は徳川農場の販路=道内は当然ながら東京や大阪のデパートでも販売され、「北海道といえば木彫り熊、木彫り熊といえば八雲」「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫り熊」と1932年のアサヒグラフなどに紹介されるほどになりました。
 また、研究会の構成員も、農民が半分以上を占めており、義親公の目的であった農民の生活向上も果たしました。むしろ義親公は、木彫り熊を作ることを重視していたわけではなく、地域の経済が発展することを目的としており、その目的は達せられたと言えるのではないでしょうか。
 と、いったお話を聞いたあと、実際に木彫り熊展示室で実物を見学しながらいろいろな説明を聞きました。

よろしくどうぞー!

(投稿者:しげちゃん)


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