「遊楽部原野拓かる」

やふー、しげちゃんです。
明日は八雲学!ってことで、前回の八雲学の講義内容をチラッとご紹介。
興味が湧いた方は、明日からでも八雲学は参加できるとのことなので、公民館までお問い合わせをば。
※八雲学は公民館講座の一つで、全8回を予定してます。明日が第二回で、前八雲町郷土資料館館長の三浦孝一氏による木彫り熊についての講義になります。

 第一回目の八雲学は、古文書関係で大変お世話になっている幸村恒夫氏を講師に迎えての開催でした。
タイトルは、『遊楽部原野拓かる 旧尾張徳川家開拓による「八雲」の誕生』でした。

 八雲は明治11(1878)年に、旧尾張藩の士族達が15戸72名移住し、開拓を始めます。
その前年に、徳川家17代当主徳川慶勝公は北海道開拓地選定のために、吉田知行・角田弘業・片桐助作を派遣し、北海道各地を回って調査させます。ちなみに、調査団は吉田・角田の2名で、片桐は現地駐在員の特命を受けての来道でした。

調査
 その調査で、移住に適地としたのが遊楽部なのです。何よりの魅力は、200万坪を超える広大な土地でしたが、この選定が9月だからこその結果でした。
もし調査に入ったのが5~6月だったら、遊楽部を選ばなかった可能性もあります。5~6月は、八雲町民ならご存じの通り、「海霧(ジリ)」と呼ばれる霧が発生し、日照時間は少なく、寒い日が続きます。開拓をして稲作をしようと考えていましたが、この寒さは致命的で、結論から言えば八雲では改良されていない品種での結実は無理で、後年あきらめることになります。
 それはともかく、慶勝公は遊楽部を移住の地として定め、開拓使長官黒田清隆や岩倉具視らを巻き込んでの末、150万坪の土地の無代価払い下げを受けます。タダです。そのかわり、開拓使からの開拓移住民への資金援助を求めませんでした。お金は、徳川家が出します。元武士は、武士であることをやめるかわりに金禄公債(武士に対する退職金のようなもの)をもらっていて、尾張藩最後の藩主、慶勝公の場合、金利だけで莫大なお金がもらえてまして…そのお金を注ぎ込みます。これを管理していたのが第十一国立銀行(国立とあるけど私立です)…その後の東海銀行です。 それを聞いて、ちょいと驚きました。だって向こうでは普通に利用してたし、同じ市にはデータセンター的なビルあるわ、すごい身近な話なんですよ。あ、東海銀行は現在はU○J銀行です。○はSじゃないよ
 この遊楽部開拓の特徴は、北海道初の個人資本による団体移住開拓であったことです。徳川家がスポンサーとして、授産のために士族を集団で開拓に送り出します。遊楽部の地に作られた徳川農場では、七重勧業試験場からの支援を受け、当時の最新鋭の方法で開墾をし、移住を成功させます。この後、道の開拓政策も官費に依らない個人資本流入による移住開拓の促進へと舵を切っていきます。あの毛利家や鍋島家、前田家も徳川家による遊楽部開拓を手本として、北海道開拓に乗り出すことになります。

 

 では前置きはこのへんにして(これでも書き足りなかったりしますが)、本題。
八雲村は、明治14(1881)年に黒岩と遊楽部が合体して誕生するわけですが、「八雲」という名前はどこから出てきたのでしょうか。
「一週間のうち八日曇るから八雲」は違います、俗説です。
 最初の移民が入る前の明治11(1878)年8月、先発隊として移民を受け入れる準備をしていた吉田知行が書いた手紙に、「最初から村として成立したほうが良いと思いますが、名前はどうしましょう?」(大雑把な意訳)とあります。その中に出てくるのが「年魚市村」「愛知村」「名古屋村」です。愛知県の熱田台地(熱田神宮とかがある台地)のそばまで昔は干潟で、年魚市(あゆち)潟と呼ばれてました。愛知は年魚市に由来します。移民が入る前から村にする構想ははじまっていました。が、まだ書類に八雲と言う名前は出てきません。
 さて資料館にはなにげなく茶道具が展示してありますが、八雲では開拓当時からお茶を点てたり、歌を詠んだりしていた珍しいところです。
その歌の中に、「十たらす 二つ三つよつ こゝの野を 八雲の里と なしてける哉」と、明治12年2月にもう詠まれています。そして、村名がつけられるより前(明治12年6月)に、「八雲学校」と学校名に八雲とつけられています。
 これらの状況から、村名が定まる前から、八雲という名前が内輪では広まっていて、明治14年一村立とともに出願通りに村名「八雲」が決まったとみられます。
 この八雲はどこから取られたかというと、ご存じ、素戔嗚尊の古歌、「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その 八重垣を」から、慶勝公が選んだのでした。

 本当はもっと濃い内容を2時間に渡ってしていただいたのですが、書けば書くほど長くなってしまうので、ザックリと紹介させていただきました。
明日は木彫り熊の歴史ですが、これは19代の徳川義親公についても、濃い話が聞けると思います。

 

 ってこの記事書いてたら、モコさんが先に更新しているという…まあテーマは被っても内容被ってないからいいですよねってことでそのまま更新。同じ日に二人が更新するのもしんちゃんとやらかしたこともありましたし。つか今日を逃すともう更新できないんですよ、ネタ的に
よろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)


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