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学校紹介

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2019年4月1日更新

「山越内」の生い立ち

 「ヤムクシュナイ」語源“ヤム・ウク・ウシ・ナイ”(栗拾いをするために渡る沢の意、現在の酒屋川附近)と呼ばれていた山越は、内浦のうら波寄せる風光明媚で海の幸豊かな所でした。6000年位も昔から人が住み、和人も1200年前の奈良時代後期からすでに来ていました。
 寛治11年(1799)、幕府が直接蝦夷地を治めることとし、まず第一にアイヌ請負制度を止めてアイヌを保護するようにし、山越内を始め各地に会所や駅逓を設け馬の中継所を置き、大きな川(落部・野田追・遊楽部)に渡船場を設け交通を便利にしました。
 また、アイヌと和人とが同じ所に入り交じって住ませておくと紛争が起きやすくなるので、文化元年(1804)に山越内へ関所を設け、北の方には和人を定住させませんでした。関所の規模は山越駅から郵便局の辺りまでと推定され、広い面積でその中に三列に柵が設けられ関所は毅然と屹立し、衛士が常に火縄銃を持って往来する人を誰何し、警護は厳重を極め威風は渡島半島を圧する概がありました。